白い白い部屋の中で、大事なひとを待っている。もうすぐ大好きな彼がやって来る。後数分が待ち遠しくて、焦れったくて堪らない。
もうすぐ、もうすぐ。
もうすぐ彼がここにやって来る。
自分に会いに来てくれるのだ。
だいすきだよ。
ずっと、ずっと愛してるから。
ユウはゆっくりと目を開けた。頭が重い。体中ダルくて力が入らない。薬品特有の臭いが鼻をついた。
どこか懐かしい匂い。清潔な白いシーツ。
どこだ、ここは。
動かない頭を無理に動かして、記憶を辿る。
分からない。ここは一体どこなのか。どうして自分はここにいるのか。どうして。
どうして自分はここを知っているのか。
…いや、知らないのか。知らないのに知っているような、そんな気になるのは何故だろう。
緩慢な動きで体を起こすと、右手を握ってちはやが眠っていた。何故か彼のシャツは新しくなっていて、肩口からは包帯が覗いている。少し視線をずらすと、医療品を置いたテーブルに黄ばんでボロボロになった彼のシャツが畳んであった。
血が滲んで汚れていた。
「ちはや…。ちはや」
自由な左手でちはやを叩いてみる。肩口に傷があると困るので彼の黒々とした髪の毛を撫でるような感じになったが、彼は小さく呻いて直ぐに顔を上げた。
「どうしたんだ。1人か?」
「ううん…。リンは…そっちで、寝てるんだけど…触るなって、言われてて…。ユウは、もう平気?」
声がふわふわしている。睡いのだろうか。
「ああ。…眠いなら寝ておけ。替わるから」
ふるふるとちはやが首を振る。
「大丈夫。ちょっと怠いだけだから…。まだ薬、効いててさぁ」
麻酔か。
ユウはちはやの肩口に目をやった。
痛み止めの処置がいるほど酷い傷を負ったのだろうか。
「…ありがとね」
「ああ…あ?」
ちはやの傷に完全に気がいっていたユウは、頭に入ってきた彼の言葉を何気なく理解して、耳を疑った。
何故ちはやが礼を言う。今までの道中なにがあっても、礼など一度も口にしなかったちはやが。
ちはやは少し眉をしかめて身動ぎをした。
「だからっ…。ありがとうって、言ったの…っ。助けてくれて…ありがと」
もう言わないよとそっぽを向いた彼に、ユウは微かに微笑んだ。ちはやも可愛いところがある。
「ボク、知ってたのに…リンが、あそこで、ボクが飛び出したら絶対来るって分かってたのに、守りきれなかった…」
ぼそぼそとちはやが呟く声を、ユウは何も言わずに聞いていた。
どのくらい経ったのか。
「あれ。ユウ、まだ寝てないとダメだよ。ちはやもなんで起きてるの」
水の入った盥を手に入ってきたのはルイとミヨだ。
だいぶ覚醒したちはやが早速悪態をつく。
「眠くないし。寝過ぎて頭が腐りそうなんだよ。痛みが無い代わりに感覚も利かないし…この薬は好きじゃないな」
「毒が抜けるまでの辛抱だって言ってたでしょ?もうちょっとだよ。瘡蓋が出来始めたら、必要なくなるんだから」
手際良く布巾を絞りながらルイがちはやに応える。ルイから布巾を半分分捕るようにして受け取ったちはやは、自分でシャツを脱ぎだした。ぶかぶかのシャツは前が全て釦になっていて、指先の感覚も無いらしい彼は3つ目に手こずっている。獣のような唸り声を上げた後、彼は忌々しげに舌打ちをして1人で脱ぐのを諦めた。
「ちっ…。こんなことならルイなんて庇わなければ良かった。平衡感覚まで狂っちゃって気分が悪くて仕方ない」
彼が本心で言っている訳では無いとユウにはちゃんと分かるのだが、ルイはどうやらそのままの意味で受け取ったらしく、本気で傷付いた顔をしている。声をかけるべきか、なんてことを思いながら、ユウはミヨから濡れ布巾を受け取った。汗を拭くからとそのまま服を脱がそうとしてくる彼女を、それは良いと押し止める。
「ご、ごめん…」
「…本気にしないでよ。避けらんなくて血まみれでぶっ倒れられる方が寝覚めが悪いから」
もう少し素直に、そんなこと思ってないと言えば良いのに。
ユウが微笑ましいなと思いながら見ていると、気恥ずかしくなったのか、ちはやが泳がせた視線がユウを捕らえた。キュッと目と口を狭めて、彼が不機嫌そうな顔を作る。
「…何かあるなら言えば?」
「無いよ」
「それは良いことだ」
そう言いながら入って来たのはユウの見知らぬ少年だった。
美しい少年だ。横顔からも気品が滲み出るようで、流れるような動作のひとつひとつには全く無駄が無い。淡い色の艶やかな髪に、美しく整った鼻梁。涼やかな声と共に玉虫色の瞳がユウを捕らえる。
瞬間、眩暈がした。
なんだ。
耳鳴りがする。景色がブレる。
命令だ…聞こえるか、17番。命令だ。
誰の声だ。低い、厭な声がする。あの声は嫌いだ。無機質な声。逆らえない、絶対者の声。
ああ、そんなことはしたくないのに。
最後に声ではない何かが流れて行き、耳鳴りは止った。
「口喧嘩が出来るのなら経過も良好だろう。ちはや、服のサイズは分かるか」
「プライバシーの侵害だよ」
「どこか行くの?」
まともに答えないちはやに続いてルイが少年に声をかける。少年は手早く薬を調合してちはやに手渡しながらルイを振り向いた。
時間だ、目覚めろ。2分37秒後にゲートが開く。いつものように準備に入れ。
ああ、まただ。誰だ、誰の声だ。
なんで俺は、この声を知っている?
不快な声は一瞬だけ頭に響き、赤い景色が閃いて消える。
「仕立て屋に行く。ここには僕しかいないから、小さいサイズが存在しない。体に合わない服は防御力や素早さが下がるだろう」
「お節介め。キミの世話にはなりたくないね」
「そういうな」
微かな表情の変化が、彼が生き物であることを示してくれる。美しい彫刻のような少年ははんなりと困ったように微笑んだ。
「僕には他に金を使うことがない。せめて、衣食の世話くらいさせてくれ」
「も、もう充分してもらっちゃってますよぅ。ホントに、そんなにしてもらっても、なんにも返せないです」
財布の紐を一挙に握っているミヨが慌てて少年に待ったをかける。ミヨが金絡みで良心の呵責を受けるなんてよっぽどだが、少年は頑として譲ろうとしない。
「構わない。そんなつもりでやってるわけじゃないから」
「じゃ、じゃあ、僕も行きたい。それで良いでしょう、ミヨ」
「むむ…あんまり良くないです」
ミヨのルイに対する信頼はあまり高くないらしい。
…仕方ない。
「俺も行く」
「駄目」
その場にいた全員から待ったを食らってしまった。心外である。
「ユウは病み上がりでしょ。まだ寝てないと」
「別に病気だったわけじゃない。もう動ける」
「なんか…昨日のちはやくんと同じこと言ってますけど、駄目ですよ?」
「動ける」
強い語調にするとなんだか拗ねた風な言い方になってしまったが、本心だった。もうすっかり痛みも無いのだ。
それよりも、耳鳴りと眩暈の方が気になる。目の前の少年が原因ならば、少しでも長く側にいて、何故起こるのか、一体なんなのか見極める必要がある。
少年は何事か考えていたようだったが、それじゃあ、と不意に顔を上げた。
「3人で行こう。ただし自由行動は禁止する」
それでいいかと少年がミヨを見る。彼女は既に反論を諦めていた。
「お好きにどうぞ。でももし何かあってもミヨは知りませんから」
こういう時の彼女はしっかりしているというかなんというか、流れに逆らわず岸に避難するのが上手いなあと感心するユウだった。